「やさしい嘘が好きよ。」 そう言ったのは、あれは、一体誰だったか… 哀しみと寂しさと諦めを奥に潜めた瞳が、甘く歌うように囁く。 そう言われたのは、どこの、いつの夜だったか… 優しい甘やいだ歌声と、暗く儚げな人影がちらつく。
その者は、混乱する意識の中で、必死に思い出そうとしていた。 しかし、記憶はどんどん泥に沈み込むようにして、一向に掴めない。 焦れば焦るほど、意識は益々混沌として散ってしまう。 いや、あれは言われたのではくて、いつか聞いた歌だったのか… それすらもはっきりとしない。 なんという名の人だったか… 脳裏に、その人の眼差しが焼きついている。 耳裏に、その人の歌声がこびりついている。 自分はその人のためだけに、ここまで来たのだ。 あの歌声を救うためだけに、確かにここまで来た…はずだ。 そんな想いだけは、強く残っている。 なのに、この混濁した朝に、その者は自分が誰かさえもわからなくなっていた。 自分は一体誰なのか… ここは一体どこなのか… その恐怖よりも勝る一片の妙な記憶への気がかりと焦燥した想い。 それはまったく不思議というより他ない。 こんな尋常ではないこの事態にあって、そんな本当にあったことかどうかもわからない おぼろげな記憶が、なによりまして気にかかるなんて。
自分が何をするべきなのか、どこに行くべきなのかわからない。 使い古した一人分の荷物も、なんのためにここにあるのかわからない。 その者は、肌を刺す寒気と峻烈に大地を洗う朝の光の中に、まるで盲いた人のように立ち尽くしていた。 朝陽が、頭上の枝葉の隙間から斜めに差し込み、大地に厚く積もる冬枯れの葉をまだらに照らしている 森の一角は、しんとして静かだ。 自分は、孤独だ。 強烈にそう思った時、またあの聞き覚えのある声が、脳裏の隅で囁いた気がした。
「やさしい嘘が好きよ。ひとりぼっちじゃないと思えるから…」 このなんの手がかりもない世界で、その者にはその妙な記憶にすがる他はなんの術も残されていなかった。 その者はいつしか冬枯れの葉を踏みしだいて、本体に置き去られた影のように歩き出していた。 |